— いのちがほどけ、還っていくまで —
私は、最初から「安心」を知っていたわけではありません。
むしろ、
安心とは何かを知らないまま、生きることを始めた人間でした。
1990年、茨城県に生まれました。
私は一卵性双生児でしたが、妹は生まれてくることができませんでした。
言葉で説明できる記憶はありません。
でも、身体は知っていました。
・なぜか、いつも「半分欠けている」感覚
・理由のない罪悪感
・生きていること自体への遠慮
・「私がここにいていいのか」という、根拠のない問い
それは後になって
**“生まれた瞬間から抱えていた喪失”**だったのだと気づきます。
🌙 居場所がなかった、という感覚
成長するにつれて、
学校という場も、家庭という場も、
私にとっては「安心できる場所」ではありませんでした。
中学生の頃、不登校になり、
自分の身体と心がバラバラになっていくのを感じていました。
・自律神経失調症
・精神科への通院
・リストカット
・「消えたい」という感覚
それは「弱さ」ではなく、
安全を失った神経の、必死なサインだったのだと
今ならはっきり言えます。
高校は中退しました。
「普通に生きる」というレールから外れた私は、
自分がどこへ向かえばいいのかわからなくなっていました。
📚 探究が始まった理由
高校時代、図書館で偶然手に取った一冊の本。
それが、機能不全家族やアダルトチルドレンについて書かれたものでした。
そのとき初めて、
「この苦しさは、私一人の問題じゃない」
という言葉が、身体に落ちてきました。
・親も、祖父母も、またその前の世代も
・それぞれが満たされないまま、役割を生きていたこと
・愛し方を知らないまま、愛そうとしていたこと
それが世代を超えて、
静かに受け継がれてきたこと。
これが、次の世代へと
受け継がれてしまうこと。
私はそこで初めて、
自分の苦しさに「理由」があることを知ったのです。
そして、この連鎖を
私の代で止めたいと願ったのです。
🌊 瞑想と、意識の扉
2010年代、
私は瞑想と出会います。
OSHO瞑想、アクティブ瞑想、沈黙。
思考を止めるためではなく、
身体に戻るための時間でした。
2017年、瞑想の最中に
内側から、ひとつの問いが浮かび上がります。
「私は、家族に愛されていたのだろうか?」
この問いをきっかけに、
妹の死、身体の違和感、
「幸せにならないことで復讐する」無意識のパターンが
少しずつ見えてきました。
2018年、瞑想にコミットし
**Ma Anand Ida(マ・アナンド・イダ)**という名を授かります。
それは「至福」「聖なる火」という意味を持つ名前でした。
この時期、
いわゆる“スピリチュアルな体験”も多く起こりました。
しかし同時に、私ははっきりと感じていました。
意識が開くだけでは、人は生きられない。
身体が安心していなければ、愛は定着しない。
🌱 結婚・出産、そして崩壊
2018年の瞑想合宿中、
私は直感的に理解しました。
「今世の課題は、結婚と出産だ」
翌年、今の夫と出会い、結婚。
2021年、娘を出産します。
そして、
それまで抑え込まれていたものが、
一気に表に出ました。
・産後うつ
・双極性障害の診断
・幼少期のトラウマの再浮上
・親への怒りと罪悪感
「どれだけ学んでも、
どれだけ意識を広げても、
身体が壊れたら、生きられない」
私は、完全に立ち止まりました。
🛌 寝たきりの時間が教えてくれたこと
2022年、
娘の慣らし保育の時期に、化学物質過敏症を発症。
ほぼ寝たきりの生活になりました。
その時間は、
私にとって「失った時間」ではありません。
初めて、身体が主導権を取り戻した時間でした。
HECでのセラピー、
内側のチャイルドとの対話、
無理に治そうとしないプロセス。
そこで私は、
はっきりと理解しました。
変わろうとしなくていい。
戻ればいい。
👶 娘は、いまも鏡
2024年、夫の単身赴任が始まり、
娘と二人きりの生活が始まります。
そこで再び、
娘は私の前に“鏡”として現れました。
・私が親から受け取ってきた「愛ではないもの」
・怖れ
・役割
・過剰な責任
それに気づき、
痛みと罪悪感がほどけたとき、
私の中で自己一致が始まりました。
それは完成ではなく、
いまも続いているプロセスです。
💧 真喜の泉スフィアへ
私の人生は、
「誰かを導くための物語」ではありません。
ただ、
身体・心・意識が再びひとつに戻っていく過程でした。
真喜の泉スフィアは、
そのプロセスから生まれた“場”です。
・頑張らなくていい
・癒そうとしなくていい
・正解を探さなくていい
ただ、
あなたがあなたに還るための、安全な空間。
私は今も、
娘に映されながら、
身体に教えられながら、
この道を歩いています。
完成していないからこそ、
一緒に座れる。
それが、
Madinaとして、この場に立つ理由です。